今回、第一回目の招き猫文庫時代小説新人賞の選考に加わらせていただいた。最終選考に残った作品は三篇。それぞれに力があり、それぞれに個性があった。何より、おもしろく読めた。この賞はエンターテインメント、つまり読み手をどれくらい楽しませられるかを評価の一つにする。

従来の枠にとらわれないエンターテインメント時代小説を求めます。と、応募規定にあるとおりなのだ。

最終選考の三作品は、そういう意味では合格していたかもしれない。ただし、合格点はぎりぎりのところだ。

一長一短、美点と瑕疵は、これもそれぞれにある。当たり前の話だ。問題はその美点がその瑕疵が、従来の枠内に納まっていることだと思う。

新人賞であるからには、書き慣れた安定感のあるものより、破綻の危うさを含みながら、いや、含んでいるからこそ従来の作品にはない何か、読み手を揺さぶり不安なり恍惚なり戸惑いなり快感なりを覚えさせてしまう何か、ここにしかない物語の一端なりと感じさせる何かを内包した作品をこそ選びたい。

瑕疵が美点であるような、美点がとんでもない瑕疵になりうるような、危うく生き生きとした、すごみのある作品を選びたいのだ。

どうも、今回の作品たちは行儀がよすぎた。『従来の枠』の内にきちんと納まり、お作法通りに動いている感が強い。

自分の作品の本当の魅力、本当の美点に無頓着すぎる。「ここが最大のセールスポイントだ」と、書いた本人が言い切ることができるのか。この一作で勝負するという気迫の欠如とともに、気になったところだ。書き手がもう少し自覚的であったら、すごい物語になるのにと、わたしは三作ともに歯噛みした。

魅力はあるのだ。可能性はあるのだ。上質のエンターテインメント時代小説になりうるのだ。

あと一歩。その一歩を踏み出すのがどれほど困難か、身をもって知っている。だからこそ、ここまで残った三人には踏ん張ってもらいたい。必死で足を前に出してもらいたい。

『やっとうの神様』

三作の中で安定度で図抜けていた、読ませるし、泣かせるし、わくわくはらはら胸を高鳴らせてもくれた。

美しいシーンもある。剣を交える戦いの描写もなかなかに迫力があった。威風の存在がいい。残忍と非情と悲しみを秘めた戦神に、わたしは胸を打たれた。他の神々もどこか哀しく、どこかユーモラスでおもしろかった。ただ、鈴は平凡だ。舞の神からやっとうの神になった経緯(?)も半端だし、腕はあるが世渡り下手の男とのコンビ設定にも既視感がある。新人の場合、どこかで読んだようなと思われたら、かなりのマイナス要因になることを心してもらいたい。安定感が実は、『従来の枠組み』内にいるからこそでは、情けない。もっと独自の、もっと個性的な、もっと先鋭な世界を構築してもらいたい。そして、もう一つ。女性をきちんと書き込んでほしい。鈴はともかく、香純といちの二人は薄っぺらく、人としての姿が見えてこない。彼女たちをもっと立体的に、血肉、感情のある人物として書けたなら、この作品は格段によくなる。その期待と可能性にかけて、大賞とした。

『女剣士の商家奉公顛末書』

タイトルを一考してほしい。まずはそう注文をつけておく。わたしは、物語の最後に近いあたり、義姉が弓に矢をつがえて、きりきりと引き絞り、はっしと放つシーンの鮮やかさに、胸がすいた。動きのある生き生きとした場面を書ける方なのかもしれない。しかし、その魅力があまり活かされていないように思う。惜しいことだ。女剣士が商家に奉公に出る。その思い付きに縛られて、主人公八生の個に肉薄できなかったのではないか。そもそも、武家の娘がすんなりと商家に奉公できるのか。物語の要ともいうべき部分が甘い。エンターテインメントとは、何でも適当でいいと勘違いしてもらっては困る。確かな知識や情報を自分のものにして、そこをどう独自に変化させるのかが問われる。細心の注意と大胆な想像力を駆使して物語を紡いでもらいたい。

『杏葉牡丹異聞』

わたしは、この作品が一番好きだった。独自の世界とおもしろさを抱えているように感じたからだ。

ただ、完全に話が二分している。前半の千両侍は本当におもしろかった。お家のために千両を背負い彷徨う八木橋は、不思議な力を持つ刀研ぎ職人の小一郎や千利休の助けによって何とか、任務を全うする。ここまではとてもおもしろくて、人物も魅力的だった。しかし、後半になると小一郎も八木橋もほとんど出てこない。テーマは津軽藩の本領安堵云々に移る。これでは、読み手は戸惑う。何が書きたいのか、誰を書きたいのか、スタートに戻って考えてもらいたい。もったいない作品だと残念だった。

また、エリートだのブランドだのなんて単語を平気で使わないこと。時代小説を書く心構えをしっかりもって、もう一度、挑んでもらいたい。